2019年12月20日
【教育哲学】善意の「中の人」の声が教育制度に止めを刺す。(だからこそ僕は教職の素晴らしさを伝えたい。)
今回は閲覧注意です。
下の文言を読んだ時点でムカッとされる方は続きは読まない方がよいかもしれません。(本当はそういう人にこそ読んでもらいたいのですが。)
さて、最近気になることについて。
それは何かと言うと、Twitter などの各種メディアにおいて、「現場の教員たちがいかに自分たちの仕事量が多く、そしてその多くが報われないものであるかについて語ること」が一種テンプレート化してきた、さらにいえば不幸自慢化してきたということです。
その末路は例えるならこんな感じ。
皆で頑張れば沈まずに持ちこたえる船かもしれないし、中にはまだ大勢の乗客が乗っているのに、諦めて逃げたりまだ中にいる船員が「この船もうすぐ沈むぞー!!」って大声を出した結果、本当に沈んじゃう。
続きいきます。
まず、現場の教員が愚痴をネット上に書いた場合…
これまで
→聖職者たるものが労働環境をぼやくとはけしからん!
(こんな時代あったなあ(遠い目))
最近
→よく言った!気持ち分かる!で「いいね」をポチ。
このような図式で現場の愚痴を書くのが「いいね」という承認欲求を満たすための「テンプレ化」してる気がしてなりません。
確かに現場の声を文科省なり各教育委員会なりに伝えるということは、労働環境改善のためにも必要なことです。
僕の妻も公立学校の教員なので、話を聞いていて「何だそれ」と言いたくなることはけっこうあります。
ですが、それを不特定多数の人が見るネット空間で叫ぶ意義が果たしてどれだけあるのか。
また中には、これから教員を目指そうと言う学生に対して「こんな報われない仕事やめておいた方がいい」という全くの善意からアドバイスを発信する現職の方もいるようです。
親戚の子供に対してそういったアドバイスをするというのなら何の問題もないのですが、以後の全ての時代の全ての人に対してオープンな情報であるという事に自覚的であるならば、控えるべきだと僕は思います。
なぜなら。
「彼」のアドバイスが正論であると認識する人が多いほど、教員の志望者数が減少します。
そして、志望者数の減少は、優秀な教員の割合が減るとことを意味します。(公立であれば公務員なので、そこの需要はあるでしょうから定員は割らないでしょう。)
そして仕事は大体どの世界でも、優秀な人のところに集まります。
そうすると理不尽な労働環境で働かされている彼は、優秀な教員の不足によりさらに過酷な環境に追い込まれます。
どんどん仕事が増える中で、the last strawが彼の背中に載せられた時、彼は退職を余儀なくされ、働けるはずの教員を失った教育界はまた一歩破綻へと近づくのです。
皆で頑張れば沈まずに持ちこたえる船かもしれないし、中にはまだ大勢の乗客が乗っているのに、諦めて逃げたりまだ中にいる船員が「この船もうすぐ沈むぞー!!」って大声を出した結果、本当に沈んじゃう。
僕が外から見たときの、公立学校の教員界の現状はこんな感じです。
再度言いますが、労働環境の改善を求めて意見を表明するのはとても大切なことだと思います。
しかしその一方で、教員としてのやりがいや 楽しさといった部分を前面に出すことができなければ、教員を志望する人が減り、最終的に教育制度は破綻します。
僕自身も、「幸いなことに僕が勤める学校は私学ということもあって、教員一人一人の裁量権が多く、制度上の縛りもかなり少ないので非常にやりがいをもって仕事ができています」という前置きをしないと、教員の仕事の楽しさややりがいについて語りにくい雰囲気を実際に僕は感じています。
それこそが昨今の「教員の仕事量に対する不満のテンプレ化」を象徴していると思います。
これからは同じ教員として、達成感ややりがい、そしてだからこそ感じる無力感や悔しさについて、もっともっと声を上げていかないといけないなと個人的には感じています。
そして最終的にこのブログを通じて、働き方改革ではなく働き甲斐改革が必要なんだと文科省が気づき、現場の裁量権をもっと増やしてくれればと密かに願っています。
いや、でもほんとに教育って難しいし、一筋縄でいかないけど、だからこそ教員が頭を使って生徒と一緒に課題を乗り越えたときが、この上なく面白いですよ!
だってその成功は、その生徒だけではなく、世界の未来を切り開くかもしれないから。
こんな「夢があって」「おもろい仕事」他にありません。
胸を張って「教師」をしましょう!
(似たようなことをほぼ一年前にも書いてました)
burwonderwall at 21:58│Comments(1)│教育哲学
この記事へのコメント
1. Posted by wonderwall 2019年12月22日 17:40
一部加筆、修正。