2019年07月27日
【教育哲学】「教育は『教員の不在』によって完結する」という孤独に向き合うために
一学期に「教えない授業」(能動学習)を実践してみましたが、夏休みに同じ学年を教えているネイティブの先生が「同じようにやってみたいので、アドバイスが欲しい」ということで授業案を見せてくれました。
2つ、3つ程、前の記事で書いたことを基に改善点を伝えましたが、こうやって自分の挑戦が周囲に伝播していくのって嬉しいですね。
でも能動学習は、教員によってはやりたがらない人もいます。
それは何と言っても、「教員(自分)が不在でも学びが成り立つ」という現実を直視したくないからです。
今回はそのあたりを一応説明して、どういう心持ちで僕が能動学習に取り組んだかを記事にします。
いきなりですが、明治時代に多くの外国語が日本に入ってきて、それを日本語に訳した有名な人と言えば福沢諭吉ですよね。
西洋の進んだ文化や哲学的な概念を日本人が理解できたのは彼のお陰です。「自由」とか「民主主義」とか。
ですが、実はeducationという単語を「教育」と訳したのは福沢諭吉ではなく、しかも彼はその訳は間違いであるとまで言っています。福沢諭吉の著書「文明教育論」に次のような一節があります。
「学校は人に物をうる所にあらず、ただその天質の発達を妨げずしてよくこれを発育するための具なり。
教育の文字ははなはだ穏当ならず、よろしくこれを発育と称すべきなり。」
つまり、福沢諭吉はeducationという語を「教育」ではなく「発育」と訳すべきだと主張したのです。残念ながらすでに「教育」という訳語が先に出回っていたために、「発育」は市民権を得ることなく消えてしまいました。
そして、教員はその誤訳に振り回されて本来あるべきeducationを行えなくなっている気が僕はします。
教員の仕事は、生徒を「教」えて「育」てることではないのです。生徒は自「発」的に「育」つのだから、その助けをするのが本来のeducationなのです。
大学時代に教育書を読んでいると、有名な先生がこう書かれてました。
教員のゴールは「必要とされなくなること」である。
僕はこの一節を読んだときに、どうしても受け入れることができませんでした。
教員が頑張って授業して、生徒の成績が伸びて、最後は「先生ありがとう」って言ってもらいたい。
そんな気持ちでいた僕にとって、「必要とされなくなる」という言葉は、頭では理解できるけど気持ちがついていかないという状態でした。自己研鑽の先にあるのが自己否定であれば、何のために頑張るのかと悩みました。
だから、「教えない授業」に対して、頭では理解できるけど、気持ち的に「何だかやりたくない」というのは理解できます。
だけどそれを認めたくないから、「うちの生徒には無理」と生徒のせいにしてみたり、「それでは力がつかない」と非科学的なことを言ってみたりする(のかもしれません)。
では僕が「教えない授業」をしたときに何を思ったかを時系列順に書きます。
①意外と頑張るな。
②ん?あの辺りの生徒は手を抜いてるな。でも我慢我慢。
③周りの生徒に話しかけだしたから注意してこよう。
(「時間を無駄にするのは自由だけど、人の邪魔はしないように
」と注意。)
④また頑張るようになったな。
⑤……質問もあまり来ないし、今まで教えてたのは何だったんだろう?
⑥ま、生徒の力がつくならいっか。
僕が大学生の時には⑤で止まってました。
当時無かった視点は、最後の⑥です。
「先生ありがとう」
って言ってもらいたいですよね。
「先生のお陰で英語好きになりました」
って言ってもらいたいですよね。
でも、誰のために?
言いにくいけど、全部自分のためですよね。
「生徒が育った」んじゃなくて、「生徒を育てた」って言いたいんです、僕ら教師は。だって「教育」してるんだから。
でもeducationは「発育」であるべきだって福沢諭吉は言ってました。
生徒の力がつくのなら、教員がしゃしゃり出る必要ないんです。生徒が方向性を間違えたときに修整してやればいいのです。
「先生のお陰で出来た」よりも「俺頑張ったから出来た」と言える生徒の方がきっと強いです。
そんな子どもたちを増やすきっかけになるのが「教えない授業」、つまり能動学習だと思います。
…何だか偉そうに色々と語ってしまいましたが、僕自身もまだまだ教えてるところは多いし、卒業生から礼を言われるとやっぱり嬉しいので、これからも少しずつ教員として成長していきたいと思います。
burwonderwall at 23:24│Comments(0)│教育哲学